<茶道の意義>
 茶道は日本の伝統文化として、日本国内だけでなく、海外にも認められている。今や、日本文化を理解するうえで不可欠なものと言ってもいいだろう。
 ただ、茶はもともと亭主が釜をかけて客を招くということだけである。亭主は心を尽くして客に楽しいひとときを過ごしていただく。人と人との出会いで茶をもてなし、もてなされる際のお互いの真心を大切にしているだけのものである。
 しかしながら、作法としての茶道の点前だけをみると、なんとも難しく、窮屈なものと思う人も多いだろう。茶道は昔から茶人の長い経験と創意工夫により、時間をかけて洗練されてきた点前により成り立っている。だから、一見堅苦しいと思える点前だが、その姿は実に無駄のない、美しい形となっているのである。また、普段家庭や職場、学校などで扱う道具の持ち運びにしても、茶道具を扱う思いで行えばあやまちを起こすことはない。火の始末、狭い場所を便利に使う水屋の動き、合理的な懐石料理など茶道を通じて身につくものは数限りない。茶道を習うことにより、人前に出て恥ずかしくない行動を自然と出来るようになるのである。
  つまり、ただお茶を飲むのではなく、点前を通じ規律正しさ、人との接し方、手の運びや身体全体の動作など、儒教で言うところの五つの徳(仁・義・礼・智・信)にかなった行動を教え導くものなのである。そして、こつこつとお稽古をすることにより、毎日の行動での「うっかり見過ごす」ことや「間違え」たりすることをなくし、しっかりと日常生活をしていくための「何か」を求めるのが茶道である。そして、「一期一会」今生でただ一度の茶である覚悟で参会する、それが茶のこころなのである。
<茶の歴史>
(1)奈良時代
 お茶を飲む風習が中国から伝わった。陸羽という人物が書いた「茶経」という書物をみると中国では唐の時代既に茶を飲むという習慣があった事がわかる。おそらく、日本には当時の遣唐使や日本に渡ってきた僧達によって茶がもたらされたのではないだろうか。
 このことは、聖武天皇の時代(729年)に行茶(ひきちゃ)という儀式を行っていたことや正倉院の御物の中から多くの青磁の茶碗が発見されていることからも分かる。

(2)平安時代
 伝教大師最澄が唐に渡り茶の実をもって帰った。そして比叡山のふもとにそれを植え日本で茶の木が栽培が始まった。この茶の木の一部分が今も滋賀県の坂本に残っており、天然記念物に指定されている。
 しかしながら、この時代は遣唐使が廃止(894年)されたことにより、その後、一時的に茶を飲む習慣が中断されてしまった。

(3)鎌倉時代
 平安時代末からの宋との交流復活した。この中で宋に渡った僧侶の栄西(臨済宗を日本に伝えた僧)が持ちかえった宋の茶や道具をきっかけとして再び茶を飲む習慣が盛んになった。源実朝は健康のための薬として茶を飲んでいたこともあり、茶の風習が次第に武家にも流行し始め、茶道具の輸入も多く行われるようになった。

(4)室町時代・前期
 すでに一般の人の間でも茶の習慣が広まっていた。ただ、室町中期になると幕府の財政が苦しくなると次第に茶の習慣も下火になっていった。
 室町中期の茶人に珠光という人物がいる。珠光は八代将軍足利義政に招かれた茶人で、これまでの華やかな茶会ではなく落ち着いた簡素な茶会を目指した人物である。彼の茶の精神が後の武野紹鴎の「わび茶」に繋がったといわれている。

(5)室町時代・後期
 1502年、珠光が亡くなった年に生まれた茶人武野紹鴎によって「わび茶」が始まった。これは珠光の茶をより簡素にしたもので心から誠意をもって客を招く茶であった。

(6)安土桃山時代
 千利休の出現により「わび茶」が完成された。利休は武野紹鴎に師事し茶の湯の修行に励むト同時に、新たな茶道具の開発にも力を注いだ。
利休は織田信長、豊臣秀吉に仕え、茶の湯を知らなければ武士でないくらいに茶道を盛んにした。

(7)江戸時代
 千利休の死後、古田織部(1544−1615)が後を継いだ。そして、利休の弟子たちの中で特に古田織部、細川忠興(三斎)、高山右近、蒲生氏郷、牧村兵部、芝山監物、瀬田掃部が利休七哲と呼ばれ武将茶人として活躍していた。
 徳川家康の天下統一後、古田織部は家康に切腹命じられた。その後、小堀遠州(1575−1674)、金森総和(1584−1656)、片桐石州(1605−1673)などの大名茶人に受け継がれた。この当時の茶道は大名を中心として流行し、大名茶といわれ呼ばれていた。当時の流派は石州、薮内、遠州など今に残っているものが数多く存在する。
 一方、千利休(利休居士)の子孫によって千家茶道が庶民にも広まり今日まで伝わっている。
<千家の歴史>
千利休には、二人の男子[長男の道安(1546−1607)、次男の少庵(1564−1614)]と一人の女子[お吟(?)]がいた。千家を継いだのは次男の少庵で不審庵という茶室を受け継いだ。
 そして、少庵の子、千宗旦(1578−1658)の時にわび茶を徹底され、千家茶道の基礎が築かれた。千宗旦が不審庵を三男の宗左(1619−1673)に譲り、同敷地内に今日庵という茶室を建て、四男の宗室(1622−1697)ととも住んだ。これが、後の表千家(不審庵)と裏千家(今日庵)となる。また、千宗旦のニ男、宗守(1597−1675)により建てられた官休庵によって武者小路千家(官休庵)ができ、三千家が生まれ400年間伝わっている。

千家系図

<和敬清寂>
お茶の精神をあらわす禅語。千利休が唱えたといわれる。大応国師が宋に留学した際、虚堂禅師の嗣法を得て帰朝した折、台子と共に伝えた茶典が起源ともいわれる。
「和」「敬」は主客相互の心得であり、「清」「寂」は茶庭や茶室に関連する心得。

「和」は同士がお互いに仲良く協調し合うということ。
「敬」は同士が尊敬し合うこと。
「清」は身も心も清らかに。
「寂」は普通ということ。どんな時にも動じない心を意味する。
である。

茶道ではこれを基本に考え、お点前をする心構えを大切にしている。
<わび、さび>
 
茶道の理念をあらわす言葉。「わび」とは不自由で満たされない状態でありながら、反対の自由で満たされた境地を得るということで、言葉のもつ意味が克服されて、それよりずっと高い心の境地を目指すこと
<利休七則>



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